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第52代横綱・北の富士勝昭の現役時代から異色のエピソード、波乱の審判部長・広報部長時代までの真相

萩原 智也 萩原 智也 • 更新: • 公開: • 読了約 8 分
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大相撲の歴史において、類まれな端正なルックスと抜群のスター性、そして卓越した技術で一世を風靡した第52代横綱・北の富士勝昭。土俵上の華やかな取り口はもちろんのこと、土俵を離れてからも審判部長や広報部長として相撲界の近代化や激動の時代を支え、のちに御意見番として辛口かつ愛情に満ちた解説で多くのファンを魅了しました。2024年(令和6年)11月12日に惜しまれつつ逝去した北の富士氏が残した足跡は、今なお日本の相撲ファンの心に深く刻まれています。

本記事では、北海道旭川市出身の生い立ちから、予想外だったという大関昇進の裏側、波乱に満ちた執行部時代、そして相撲界の象徴的シーンとなった白鵬への評価まで、信頼できる公式記録と歴史的ファクトを基に徹底検証します。知られざる素顔とその激動の半生を紐解いていきましょう。

第52代横綱・北の富士勝昭のプロフィールと相撲界への歩み

北の富士勝昭

北の富士勝昭(きたのふじ かつあき)は、1942年(昭和17年)3月28日に北海道旭川市で生まれました(出生は網走郡美幌町)。本名は竹澤勝昭(たけざわ かつあき)。相撲界に入門後は九重部屋(入門時は出羽海部屋)に所属し、昭和の大相撲黄金期を牽引する大横綱へと登り詰めていきました。

現役時代の得意技は、鋭い突っ張り、安定感のある左四つ、力強い寄り、そして技の巧みさを象徴する上手投げや外掛けなど多彩でした。力強さとスピード、そして勝負度胸を兼ね備えたそのスタイルは、当時の観客を熱狂させました。端正な顔立ちから「角界のプリンス」とも称され、昭和40年代の相撲人気を支えた立役者の一人です。

予想外だった大関昇進と、伝説の「紋付・足袋」エピソード

北の富士が大関に昇進したのは1966年7月場所後のことでした。しかし、その昇進を巡る経緯は、現在の相撲界では考えられないほどドタバタ劇に満ちたものであったことが公式記録や本人の回想から知られています。

昇進直前3場所の成績は、8勝7敗・10勝5敗・10勝5敗の合計28勝17敗であり、15日制が定着した1949年5月場所以後では北葉山と並ぶ最低の数字でした。当時、豊山(初代)の一人大関という番付の事情があったとはいえ、昇進基準が現在より甘かった当時であっても「まさか自分が大関に昇進するなどとは思っていなかった」と本人が振り返るほど意外な人事でした。

そのため、昇進伝達式の朝も本人は熟睡しており、部屋の床山から叩き起こされて初めて決定を知らされたといいます。出羽海部屋の内部も全く予想していなかったため、協会からの昇進伝達使者を迎えるために必要な紋付や足袋を全く用意していなかったというエピソードが残っています。結果として、紋付は当時兄弟子であった横綱佐田の山から、足袋は足の大きさが同じだった柏戸から借り受けて伝達式に間に合わせました。加えて、本来立ち会うべき師匠の8代出羽海夫妻も外出して留守にしており、佐田の山が師匠代理を務めるという異例ずくめのスタートとなりました。

時期・場面 当時の状況・出来事 備考・エピソード
1966年7月場所後 大関昇進が決定 直前3場所の成績は28勝17敗で当時の最低水準
昇進伝達式の朝 本人も部屋も全く予想せず熟睡 床山に叩き起こされて決定を知る
伝達式直前 紋付や足袋が全く未用意 佐田の山から紋付を、柏戸から足袋を借りて対応
立会人 師匠夫妻が不在 兄弟子の佐田の山が師匠代理を務める異例の事態

波乱の審判部長・広報部長時代と知られざる組織の裏側

現役引退後、北の富士は相撲協会の要職を歴任しました。しかし、その指導者・役員としての道のりも決して平坦ではなく、波乱に満ちたものでした。

1982年には、審判部副部長(役員待遇)時代に知人の暴力団員を横綱千代の富士の結婚式に出席させていたとして不祥事に見舞われました。一度は委員(無任所)に降格されたものの、のちに審判部副部長へ返り咲き、理事昇格後は長年にわたって審判部長を務めました。土俵の厳格な裁定と公平性を保つ重責を担う一方、のちに新設された広報部長も兼務することになりました。

北の富士はのちの2016年のインタビューで、当時の広報活動について「広報らしいことは何もやってなかった。フィルムを提供するなどして、儲けることばかり。当時の協会はそういう考えだった。インターネットを扱える人間も全くいなかったしね」と、時代背景を含めて率直に振り返っています。加えて、1996年9月に巡業部長だった二子山が申告漏れを指摘されて解任された際には、自身の協会退職まで広報部長と兼任で巡業部長も務めるなど、協会の激動期を文字通り一身に背負って奔走しました。

横綱・白鵬への厳格な苦言と、相撲道に対する変わらぬ眼差し

北の富士の代名詞とも言えるのが、メディアや解説者としての鋭くも愛情あふれる批評眼です。その姿勢が最も象徴的に表れた出来事の一つが、2015年5月場所12日目の横綱・白鵬を巡る一幕です。

当時、白鵬は大関・豪栄道の首投げに敗れました。土俵際でもつれ、豪栄道の体も飛んだものの、スロー映像では白鵬の右肘が先に土俵外につくという際どい一番でした。取組後、白鵬は礼をせず、土俵下でぼうぜんと立ち尽くしました。この時、中継解説を務めていた北の富士は、「物言いが付いたとしても確認程度。子供でも分かるんじゃないですか」と一刀両断しました。

この痛烈な評は、同年1月場所13日目における白鵬と稀勢の里の取組が同体取り直しとなった際、白鵬が場所後に「あれは自分の勝ち。子供が見てもわかる」と審判を批判したことに対する反省が見られない態度を、本人の言葉を引用する形で戒めたものでした。世代を超えて相撲道の精神や礼儀を重んじる北の富士のブレない姿勢は、多くの相撲ファンの共感を呼びました。

【北の富士勝昭】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:北の富士勝昭の現役時代の最高位は何ですか?
A1:第52代横綱です。1966年7月場所後に大関へ昇進し、その後横綱へと昇進して数々の名勝負を繰り広げました。

Q2:北の富士の出身地や本名はどのようなものですか?
A2:本名は竹澤勝昭(たけざわ かつあき)です。北海道旭川市で生まれ(出生は網走郡美幌町)、北の大地が生んだスター力士として知られています。

Q3:相撲協会での主な役職にはどのようなものがありましたか?
A3:審判部長、広報部長、巡業部長などの要職を歴任し、激動の相撲界の運営と情報発信の近代化を支えました。

現役時代の華やかな活躍から、予想外だった大関昇進の裏側、波乱に満ちた執行部での奮闘、そしてメディアを通じた厳しくも温かい解説に至るまで、北の富士勝昭が日本相撲界に残した功績は計り知れません。常に自らの言葉と行動で相撲への情熱を体現し続けたその生き様は、2026年現在も多くの関係者やファンの記憶に鮮烈に残り続けています。昭和から令和へ、相撲の伝統と魅力を伝え続けた大横綱の歩みは、これからも語り継がれていくことでしょう。

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萩原 智也
コンテンツディレクター 萩原 智也
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飲食店のメニューと観光地の情報を担当。店舗公式サイト、自治体観光課の発表、交通事業者の時刻表を確認し、価格や営業時間は掲載時点の公式表記を明記します。

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